読者諸賢もメイキング映像等でよくご存じかと思うが、
映画の撮影では、役者が芝居を始めるきっかけとして、
監督が「よーい、スタート!」の声をかける。
これはお芝居のきっかけであるばかりでなく、
撮影部がカメラを回すきっかけでもあり、
特機部が雨や雪を降らすきっかけでもあり、
制作部が通行中の車や歩行者を止めるきっかけでもあるので、
撮影現場全体に一斉に伝えるため、監督は大声を張り上げるのである。
メガホンを持つ姿が監督の代名詞になっているのはそのためだ。
このスタートのかけ方に、実は決まった方法はない。
もちろん条例で定められているはずもなく、
「よーい、スタート!」でなければ訴訟沙汰になるという事もない。
現場全体に一斉に伝わりさえすれば、
「さぁ、やっておしまい!」でも、
「地球のみんな、オラに元気を分けてくれ!」でもいいのだ。
おそらく映画の歴史が始まったばかりの頃は、
実に多種多様で個性的なスタートのかけ方があった事だろう。
しかし、映画の100年に渡る長い歴史の末、
「よーい、スタート!」を大声でかける方式が定着してしまい、
それが現代の監督に許された唯一のスタートのかけ方で
あるかのようになってしまった。
今の監督たちもまた、この原則を疑おうとせず、
猫も杓子も「よーい、スタート!」と言うようになっている。
このままでは次世代の新人監督たちも、
スタートのかけ方にオリジナリティを発揮する場を失い、
疑うことなくこの方法を採用してしまうに違いない。
これは日本映画界にとって由々しき事態だ。
2009年○月×日、都内某所。
「この負のスパイラルを脱却するため、自分たちに出来ることはないか」
と、この事実に危機感を覚えた有識者のお歴々による
秘密会合が開催されたという。
会合の目的は「よーい、スタート!」のかけ声にとって代わる、
新時代に相応しい21世紀型のスタートのかけ方を検証するためである。
本日ここに特別に公開するのは、私がさる情報筋から極秘で入手した
『第一回新しいスタートのかけ方検討委員会』の非公式議事録である。
<以下、議事録より引用>
エントリー No.1 投げキッスでかける
方法:「よーい」と声を張り上げた後に、
唇に掌を当ててその掌に息を吹きかける仕草。
備考:必要に応じてウィンクを織り交ぜるのも有効である。
長所:住宅街など、静かに撮影しなければいけない現場で有効。
撮影現場全体に監督の愛が行き渡る。
短所:監督の事を目視できる場所にいないとタイミングがとれない。
気持ち悪い。
エントリー No.2 メール一斉送信でかける
方法:メール本文に「よーい、スタート!」と記入し、
役者やスタッフのメールアドレスに一斉送信。
備考:日本にいながらにして、遠く海外に、例えば北欧にいるスタッフにも
ほぼリアルタイムでスタートを伝えられるという、
まさに最新の技術を駆使した21世紀型のスタートのかけ方と
言ってもいい。但し、その場合には3Gケータイが推奨される。
メールの誤送信による個人情報漏れには十分に注意されたい。
長所:声が届く範囲にいない人間にもスタートが伝えられる。
絵文字、デコメなど、レイアウトで監督の個性が出せる。
短所:圏外では使えない。
メールが届くタイミングに若干の誤差が生まれる。
撮影中、全員がケータイを必ず携帯していなければならない。
エントリー No.3 ゆうパックでかける
方法:「よーい」と声を上げた後に、「スタート!」と記入した紙を
封筒に入れ、郵便局かコンビニから発送。国内なら翌日までに着。
備考:今やコンビニでも発送できるようになり、とても便利になった
ゆうパック。スタートのきっかけにこれを利用しない手はない。
長所:撮影現場にいない人、例えば実家にいる両親にもスタートを
かけることができ、ついでに自分が元気でいることも伝わる。
本番の緊張が和らいだ頃にスタートが伝わり、
落ち着いた気持ちで芝居に臨める。
短所:所定の送料がかかる。
住所等の記入が意外に手間がかかる。
エントリー No.4 寝言でかける
方法:「よーい」と声を上げた後、現場に敷かれた
ふかふかの布団にもぐり、眠りにつく。
レム睡眠時に「スタート!」と寝言で発する。
備考:いつどこでスタートがかかるか、いや、そもそも
スタートが本当にかかるのかさえもわからないという、
運を天に任せた実に男らしいスタートのかけ方。
長所:監督が身体を休めながら撮影できる。
短所:スタートがいつかかるかわからないため、
役者・スタッフの緊張状態が長時間続く。
撮影現場に布団が敷ける場所があるとは限らない。
監督が目を覚ました時には現場が撤収している可能性がある。
エントリー No.5 ピタゴラスイッチでかける
方法:「よーい、スタート!」と言った後、ピタゴラスイッチを作動させ、
様々なカラクリを楽しんだ挙げ句、仕掛けによってカチンコを鳴らす。
備考:厳密に言えば、監督がスタートを掛けてから助監督が
カチンコを鳴らしてお芝居が始まる。
そのカチンコをピタゴラスイッチで鳴らすという大胆な発想。
長所:現場が和む。
各監督のオリジナリティを発揮できる。
短所:準備に時間がかかる。
スタートをかける回数だけ、違うピタゴラスイッチを
用意しなければならない。
と、議事録はここで終わる。
ちなみに私の場合は、「よーい、ハイ!」と声をかけるようにしている。
100回に一回「よーい、ストート!」と噛むことがあるので、これを避けるためである。
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