料理と戦国時代に興味があることは何度か話したと思うが、
他にもいくつか興味を持っていることがある。
一つは写真。
映画監督が撮る写真は果たして趣味と言えるのかと
読者諸賢のご指摘が今にも聞こえてきそうだ。
しかし映画カメラマンならともかく、
映画監督の写真はやはり趣味と言っていいと私は思う。
「100メートル走が趣味」と言い張る
110メートルハードルの選手がいたら
一度検討してみる価値があるが、
同じ事を言うマラソン選手がいたらどうだろう。
東日本趣味認定委員の私としては、
マラソン選手の100メートル走ならば
趣味の領域と認めてもいい。
だとすると映画監督の写真は趣味だろう。
それぐらいは離れていると思う。
って私は一体誰を説得しているのだ。
ちなみに映画のカメラと写真のカメラは原理的には同じもの。
そう遠くない昔に映画のことを活動写真と言っていたぐらい。
映画のカメラをムービーカメラ、
写真用のカメラをスチールカメラと言い分けたりする。
そういえば、オフィシャらない話では
不真面目な写真しか載せてなかったな。
もう一つはダイビング。
実は8年前にライセンスを取っていたのだが、
それ以来ペーパーで、今年から再開し始めた。
なので、ダイビング歴はまだまだ浅い。
この二つの趣味が交わって、水中写真も撮り始めた。
趣味って混ざることもあるのかと思ったので、
新しい自分を開拓するために、
今ある趣味で他の組み合わせはないかと、頭を巡らせてみる。
水中料理。オール電化ならばなんとか。
水中戦国。なんのことだ。
料理の写真。食べログ?
戦国の写真。タイムトラベル?
戦国の料理。歴史研究?
料理の戦国。秋の新番組?
どうやら開拓に失敗したようです。
映画製作者という生き物は、観客の期待に応えられるよう
映画を限りなく本当に近づけようとするのだが、
まったくもって不思議な事に
本当に近づけようとすればするほど嘘っぽくなるという
「大事な人ほど傷付けてしまう」に似た矛盾を
抱える事がままある。
例えば映画『メメント』『博士の愛した数式』『ガチ☆ボーイ』では
新しいことを記憶できない前向性健忘という障害を
取り上げていて、それぞれに○○分までという
記憶の時間制限をわざわざ設けている。
しかし、実際の前向性健忘というのは、
どういう時に何を忘れるかという確実なパターンは存在しない。
いつ忘れるか、これはほとんどの場合、予測がつかない。
忘れる時もすべてを忘れるとは限らず、
断片的に記憶が残っている事もあるのが実際だ。
映画を限りなく本当に近づけるなら
その通りに描けばいいものを、どうして三映画が三映画とも
わざわざ時間制限というルールを設ける決断をしたのだろうか。
これには大きな理由がある(と、少なくとも私は思う)。
もし仮に実際の前向性健忘にのっとって映画を作ろうとすると、
「このキャラクターはこの時、この事は覚えていたけど、
この事は忘れていた」という理屈がいくらでも成立してしまい、
制作者が都合良く主人公の記憶をコントロール出来てしまう。
観客はリアル云々を語る以前に、
その予定調和ぶりに違和感を示すことだろう。
現実に則れば則るほど、嘘っぽくなる事があるのだ。
どうやら観客の求める映画のリアルというのは、
事実を正確に描く事によってのみ得られるわけではないようだ。
映画にリアルを求める観客。
その期待に応えるため、敢えて嘘をつく映画の作り手。
スイカの甘さを引き出すために振る塩のようなものか。
映画におけるリアルには、real に近い順に
次の4つの段階があると私は分析している。
1.実際の出来事をありのままに記録した映画
つまりドキュメンタリーだ。
これが最も real に近いと言えるだろう。
映画に徹底的な本当っぽさを求めるならば、
ドキュメンタリーをご覧になるがよろしかろう。
しかし一つ注意しなければならないのは、
限りなく real に近いが、それでもやはり real ではない点である。
いくらドキュメンタリーでも、
監督が撮りたい部分だけカメラを回し
見せたい部分だけを見せたい順番に編集しているという時点で
監督の主観が混入してしまうことになるからだ。
2.実際の出来事・人物を脚色した映画
ドキュメンタリーの次に real に近いのはこのタイプ。
このタイプは映画作りにおいて非常に有効な手段である。
どこまで本当でどこまで脚色かを曖昧に出来て、
その実、ほとんどが脚色だったとしても、
観客は全部本当にあった出来事として受け取るしかない。
「この映画は事実を元に制作されました」
この文言が一言入るだけで
単なる脚色でさえも圧倒的に本当っぽく感じられ、
その「本当にあった出来事なのかも」という予感が
多くの観客を魅了する。
その分、綿密な事実関係の調査と、
描く対象本人やその親族に対する
十分な配慮が必要となるわけだが、
作る側にとってはその苦労を補って余りあるほど効率の良い、
店長のオススメ的な方法と言えるだろう。
しかし、ちょっとずるいとも言える。
3.実際にはない出来事・人物を、現実世界に
則して描いた映画。
いわゆる、ザ・フィクション。
ほとんどの映画はこのタイプ。
『E.T.』、『ターミネーター』、『ドラえもん』など
意外に思われるかも知れないが、いずれの映画も
物語の舞台が現実世界なのでこのタイプに当てはめる。
私の作った3つの映画もすべてこれにあたる。
4.現実とは全く違う世界観(パラレルワールド)の映画、
または未来を舞台にした映画
こちらもザ・フィクションだが、その中の特例。
本当っぽさという言葉は、このタイプに限っては
「最もらしさ」という言葉に変換される。
現実世界と大きくかけ離れている内容でさえも、
その中に最もらしさという秩序がなければ、
観客は受け入れてくれない。
「100年後の未来、人類は毛ガニになっている」
という前提から始まる物語はそれだけでは受け入れがたいが、
80年後の未来に人類を毛ガニの姿に変えてしまう
かつて無いほど感染力の強いウィルスが毛ガニから検出されて、
20年の間に世界中に蔓延した、という設定でもあれば最もらしい。
皆まで言うな。ちょっと苦しい例えなのはわかっちょる。
未来を舞台にしている場合の世界観は
現在の延長と考えればある程度推測できてしまうものだが、
これがパラレルワールドとなると事情が大きく異なる。
パラレルワールドとは、私たちがいる現実世界とは別次元の世界。
現実世界とは別の生物、別の文化、言語、科学、法律、宗教。
もちろん、現実世界からの引用こそあっても
ほとんどすべてを一から創造しなければならない。
このタイプを作るのが最も大変。
もちろん、中にはこれらの分類が微妙なものもある。
例えば『ダークナイト』などのバットマンシリーズは
極めて現実世界に近い世界観だが、
その舞台はゴッサム・シティという
架空の町であることが明言されている。
もちろんグーグルマップになど載っていない。
ましてやストリートビューだなんて。
従ってこれはパラレルワールド、上記の4に分類される。
『メン・イン・ブラック』などは宇宙人が実は身近にいる
という実際にはなかなか考えにくい世界観でも、
あれは現実世界にある街を舞台としているので
上記の3というわけだ。
なんとなく考え方をお分かり頂けただろうか。
世の中の映画はこの4つの内のどれかには分類できる。
(次回へ続く)
と言っても、将来年金がいくらもらえるか計算してみました、
などと言う生々しい話をしたいわけじゃない。
映画や小説の事を説明する時に、
「リアル」とか「リアルでない」という言葉がしばしば使われる。
フィクションの創作を生業とする人にとっては
とかく敏感になってしまう言葉である。
この「リアル」という言葉、
語源はやはり英語の “real” なのだろうが、
同じ言葉であるはずなのに、日本語と英語では
その意味合いが微妙に違っていて、
たまにそれが混同して使用される。
端的に言えば、英語の real はまさしく「本当」という意味を指し、
日本語で使う時のリアルは「本当っぽさ」を指している。
ぽさアリか、ぽさナシかの些細な差が、
言葉の意味を考えれば、実に決定的な差となってしまっている。
観客は、映画館に入ると同時に
ある種の契約を交わしているのをお気づきだろうか。
それは、これからご覧になる映画はフィクションであり、
それを前提に楽しむという、
映画製作者との間に交わす暗黙の契約。
しかし、フィクションであるという前提がありながらも、
それでもなお、観客は映画にある種のリアルを求める。
「本当じゃないことぐらいわかってる、
でも可能な限り本当っぽく見せて私たちをドキドキさせて」
という不倫騒動さながらの観客との微妙な駆け引きに
映画製作者は日々、頭を悩ませ知恵を絞っている。
映画におけるリアルには、real に近い順に
次の4つの段階があると私は分析している。
(次回へ続く)
最近のコメント