映画製作者という生き物は、観客の期待に応えられるよう
映画を限りなく本当に近づけようとするのだが、
まったくもって不思議な事に
本当に近づけようとすればするほど嘘っぽくなるという
「大事な人ほど傷付けてしまう」に似た矛盾を
抱える事がままある。
例えば映画『メメント』『博士の愛した数式』『ガチ☆ボーイ』では
新しいことを記憶できない前向性健忘という障害を
取り上げていて、それぞれに○○分までという
記憶の時間制限をわざわざ設けている。
しかし、実際の前向性健忘というのは、
どういう時に何を忘れるかという確実なパターンは存在しない。
いつ忘れるか、これはほとんどの場合、予測がつかない。
忘れる時もすべてを忘れるとは限らず、
断片的に記憶が残っている事もあるのが実際だ。
映画を限りなく本当に近づけるなら
その通りに描けばいいものを、どうして三映画が三映画とも
わざわざ時間制限というルールを設ける決断をしたのだろうか。
これには大きな理由がある(と、少なくとも私は思う)。
もし仮に実際の前向性健忘にのっとって映画を作ろうとすると、
「このキャラクターはこの時、この事は覚えていたけど、
この事は忘れていた」という理屈がいくらでも成立してしまい、
制作者が都合良く主人公の記憶をコントロール出来てしまう。
観客はリアル云々を語る以前に、
その予定調和ぶりに違和感を示すことだろう。
現実に則れば則るほど、嘘っぽくなる事があるのだ。
どうやら観客の求める映画のリアルというのは、
事実を正確に描く事によってのみ得られるわけではないようだ。
映画にリアルを求める観客。
その期待に応えるため、敢えて嘘をつく映画の作り手。
スイカの甘さを引き出すために振る塩のようなものか。
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