先日、『ガチ☆ボーイ』の上映のため、
AFI FEST 2008に参加してきた。
これは、世界の映画産業の中心(かも知れない)ハリウッドの、
その更にど真ん中で開かれる映画祭だ。
そんなところでガチ☆ボーイを上映したのだから、
他に書くべき事がたくさんありそうなもんだが、
よりにもよってこのことを書いてしまう自分が
なんだか不憫にさえ思えてくる。
というのも、
ハリウッドの町並みでよく目に付いたのは映画の看板でもなく、
お土産屋でもなく、大道芸人でもなく、
ハリウッドスターそのものではもちろんなく、
“SCIENTOLOGY”と書かれたビル群だった。
サイエントロジーをご存じだろうか。
例えばトム・クルーズもその一員と言えば、
ピンと来る人もいるのではないか。
簡単に言えば、世の中に数多ある新宗教の一つである。
今回はたまたま新宗教だったが、
たまに外国に行って日本と違う宗教感に触れると、
子供の頃からずっと考え続けてきた一つの疑問を、
何度も何度もぶり返して考えてしまう。
それは噛み砕いて言うとこういう疑問だ。
「我々は、世の中のほとんどの事を見えているつもりが、
実はほとんど見えていなくて、もはや盲目状態に近いのではないか」
という。
オレは、日本人のいわゆる一般的な宗教観を持っている人間である。
少なくとも自分ではそう思っている。
お葬式や法事は仏式だし、お盆の時にはお墓参りもする。
その癖にクリスマスになると意味もなく浮き足だつし、
年始には神社に初詣。
結婚式の場合は、教会でも神前式でもどちらにも特に抵抗がない。
普段の生活の中で神様や仏様の存在を意識することはあまりないが、
いざという時にだけ、世界のありとあらゆる神様に調子よく神だのみ。
つまり、特定の思想や宗教を強く信じているということがない。
程度の差はあれ、みなさんも大方こんな感じじゃなかろうか。
人は、何かについて盲目的にそれを信じた時、
それが揺るぎない真実になって、
その基準から外れたものがまったく見えなくなる事がままある。
「じゃあ特に強く信じてるもののない自分は、
とても理性のある人間で、偏見も差別もなく、
見えるべきものが歪まれず真っ直ぐに見えているはずだ」
みなさんの中にも、自身の事をこんな風に
思っている節はないだろうか?
ところが、何かの思想や宗教を盲目的に信じる事をしない
理性ある現代人のほとんどが、実はそれらの代わりに
堅く信じているモノが一つだけある。
それは、「論理的思考」だ。
例えば科学なども、ここで言う論理に含まれる。
今もしあなたが
「あ、確かに、言われてみればそうだ」と思ったのなら、
それこそあなたがこの瞬間まで論理を
“盲目的に”信じてきた証拠に他ならない。
この文脈で言えば、理性ある(と自分で信じている)我々には、
論理の枠外にあるもの、つまり非論理的なモノが、
もしかすると全くと言っていいほど
見えていないのではないだろうか?
子供の頃から抱いてきた疑問とはつまりコレなのだ。
目に見える物体の場合はまだいいが、
目に見えないモノの場合は更に厄介だ。
その昔、光を媒介する『エーテル』という物質が
空気中にあると考えた物理学者たちがいた。
これは同時代の科学で既に否定されているが、
それはあくまで“論理的に”である。
「空気」は目で見る事ができないが、
我々は酸素や窒素が空気中にあるという論理的証拠があることを
知っているのでその存在を認識することができる。
「音」は目で見えないが、音は空気の振動だという論理的証拠が
あることを知っているので、その存在を認識することができる。
ところが、光を媒介するエーテルという物質は
目に見えない上に論理的証拠がない。
だから我々にはエーテルの存在を空想は出来ても
認識することはできない。
でも、論理の中でしか生きられず、
論理の外にある存在を認識できない我々が、
論理的証拠が無いと否定したところで、
それは本当に無いということになるんだろうか?
そう考えると、本当の本当はエーテルが存在していたとしても、
あるいは、我々の知らない他の物質が空気中に存在していることだって、
充分有り得ることなのかも、と思えてくる。
そう考えると、我々が真実だと信じ込んでいる事の内、
一体どれほどが“正真正銘の真実”に辿り着けているのだろうか。
もちろん、人間には論理の枠を超えられる
「想像」という偉大な力があるが、
我々が存在を認識できず、想像する事さえできない、
「名前すらついていない何か」は
この世にあとどれくらいあるのだろう。
そう考えると、何でもない毎日がちょっとワクワクしてくる。
仮に、「流行」を媒介する物質が空気中にあるとしたらどうだろう。
オレはその物質を試しに『コニャニャチワワ』と命名してみよう。
もちろん、コニャニャチワワは見えないし、
存在している論理的証拠はない。
でも本当は我々がコニャニャチワワの存在を
認識できてないだけかも知れないのだ。
「狂気」を媒介する物質はどうだろう?
「笑顔」は?
「幸福」は?
「恐怖」は?
「風聞」は?
どれも有りそうな気がしませんか?
実際これらは、本当に媒介物質が空気中を
飛散しているではないかと思われるぐらい、人々の間に伝染する。
じゃあ、コニャニャチワワによって流行したチワワ犬は、
きっと『コニャニャチワワチワワ』って言うんだろうなーって、
サイエントロジーの看板を見ながらそんな事を考えていたら、
体格の良いアメリカ人に肩がぶつかってしまったよ。
エクスキューズミー。
ではまた次回。
監督、こんにちわっ!
「AFI FEST 2008」お疲れ様です。
世界中の人に観ていただきたい。
私はそう思う一人です。
それはさておき、面白い事を考えてらっしゃる。
確かに見えるモノと見えないモノ。感じられるモノと感じられないモノ。
結構考えさせられる事かも知れません。
って、この記事に対してコメント書くと、長くなり過ぎちゃいますよ。
例えば「カリスマ○○」「○○のカリスマ」って、以前は沢山居ましたけど、カリスマ性を感じる人にしか、その影響力は無い。
とあるカリスマ美容師が居たとします。テレビでも有名だったりしたとします。
でも、端から見ると「変な髪型」に見えても、カリスマ性を感じる人であれば「素敵な髪型だなぁ」と思えてしまう。
それは、凡人には見えない「センス」というモノが存在するのかも知れません。
この場合、基本的には「見えてるモノ」でありますけども、人によっては認識できないモノ。
見えるからと言って存在するものではない。
そこには人それぞれの思考があるからかも知れませんね。
まぁ~何とも難しい話ですねぇ~
投稿情報: ふるひ~JMW | 2008年11 月21日 (金) 00:15
ガチ★ボーイのタイトルなのにHollywoodになると、このように話が広がる、、、。
僕のHollywoodの記憶は
BurgerKingのトイレがやたら汚い
手形の上を足蹴にして行く観光客が多いのに、平気でいるとは意外なプライドの高い俳優達。
いつかこのHollywoodでの上映が、語り草になるんでしょうねエ!?
投稿情報: ハリマオ君 | 2010年2 月 9日 (火) 00:30
「見えるもの」が人間に賦与された能力で
「見えないもの」は神が見える、支配している世界。
「見えるもの」しか信じられない人間が「見えないもの」は、見えない故にとてつもなく大きく、壮大なもの・存在に思える、という錯覚が、既に神の謀略に引っ掛かっている、、、
、と考えると、神を超えることになってしますので、人間世界から早めに別の世界にクロネコヤマトで運ばれてしまう、
それを生まれながらに植え付けられた人間はどこかに運ばれてしまう心配が本能的ニあるので、いつも神のいる「見えないもの」に畏敬を感じるように仕向けられている、のが人間である。
「ガチ★ボーイ」はそれを超える映像式なので人間には「見えないものが」多過ぎて、人間の批評を超えた見えない作品になってしまっている。
早く人間世界に戻して「見えるもの」にしましょう。
誰かが、何かが再び上映して取り上げなければならない程の秀逸の作品である。でなければ神に独占されてしまう。
ちょっと考えすぎました。。。。。
反省してます。
それほどの形容をしなければならない程の傑作です。
投稿情報: 助監督 | 2010年2 月 9日 (火) 01:05