映画製作者という生き物は、観客の期待に応えられるよう
映画を限りなく本当に近づけようとするのだが、
まったくもって不思議な事に
本当に近づけようとすればするほど嘘っぽくなるという
「大事な人ほど傷付けてしまう」に似た矛盾を
抱える事がままある。
例えば映画『メメント』『博士の愛した数式』『ガチ☆ボーイ』では
新しいことを記憶できない前向性健忘という障害を
取り上げていて、それぞれに○○分までという
記憶の時間制限をわざわざ設けている。
しかし、実際の前向性健忘というのは、
どういう時に何を忘れるかという確実なパターンは存在しない。
いつ忘れるか、これはほとんどの場合、予測がつかない。
忘れる時もすべてを忘れるとは限らず、
断片的に記憶が残っている事もあるのが実際だ。
映画を限りなく本当に近づけるなら
その通りに描けばいいものを、どうして三映画が三映画とも
わざわざ時間制限というルールを設ける決断をしたのだろうか。
これには大きな理由がある(と、少なくとも私は思う)。
もし仮に実際の前向性健忘にのっとって映画を作ろうとすると、
「このキャラクターはこの時、この事は覚えていたけど、
この事は忘れていた」という理屈がいくらでも成立してしまい、
制作者が都合良く主人公の記憶をコントロール出来てしまう。
観客はリアル云々を語る以前に、
その予定調和ぶりに違和感を示すことだろう。
現実に則れば則るほど、嘘っぽくなる事があるのだ。
どうやら観客の求める映画のリアルというのは、
事実を正確に描く事によってのみ得られるわけではないようだ。
映画にリアルを求める観客。
その期待に応えるため、敢えて嘘をつく映画の作り手。
スイカの甘さを引き出すために振る塩のようなものか。
こんにちは。
リアルな話1・2・3。
むっちゃ納得しました。
思わず「なるほど~」と唸ってしまいました。
投稿情報: olohuone | 2010年10 月13日 (水) 21:54
毛ガニのくだりは笑ってしまいました。
「real」の4段階は映画はもちろん、クリエイティブな世界に共通することかもしれませんね。
少し論点がズレてしまうかもしれませんが、私が以前、映画館で働いていた経験から思うことは、お客さまは「本当っぽさ」と一緒に「非日常」を求めているようにも感じます。小泉監督も仰っている「ドキドキさせて」という部分です。また、映画“館”という空間がその期待(要求?)を大きくさせていることもあるのかなーと。
ただ、いち映画ファンとして、これからも美味しいスイカを味わいたいと思っています。絶妙な塩加減を期待しています!
投稿情報: ぼんちゃん | 2010年10 月17日 (日) 01:36
結論に大々的に同感です。
観客はリアリズムを求めて、
映画がその通りだと嘘っぽく見えてしまう。
観客はリアリズムを求めていながら、実はその現実を忌み嫌っていて、現実とは違った形で描かれた映画が出来る事を願っている。
観客はリアリズムを求めて、嘘っぽく作った映画をそんな事あるよな、って現実を追認してしまう。
今、米国で問題になっているのは、テレビ、映画で画かれた暴力、犯罪を実際のものと受け入れて実行してしまう若者が多くいる、という現実。
結局映画はリアルであろうが無かろうが、創作であって、あくまで創作でなければならないのでしょう。
投稿情報: ハリマオ君 | 2010年10 月30日 (土) 13:57